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こまきのブログです。

好きな本紹介12〜「グレート・ギャツビー」(村上春樹訳)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)


愛蔵版 グレート・ギャツビー

愛蔵版 グレート・ギャツビー


今回紹介する本は、
スコット・フィッツジェラルド著/村上春樹訳の
グレート・ギャツビー」です。
この小説は春樹さんにとって、
これまでの人生で巡り会った中で最も大切な小説だそうです。



 たぶん三十代の後半ぐらいからだったと記憶しているのだが、六十歳になったら『グレート・ギャツビー』の翻訳を始めると広言してきた。そしてそう心を決め、僕自身もそういう日程に沿って、そこから逆算するような格好でいろんなものごとを進行させてきた。比喩的に述べさせていただくなら、その本をしっかり神棚に載っけて、ときどきそちらにちらちらと視線を送りつつ人生を過ごしてきたわけだ。
 ところがそうこうするうちに、なぜだかはよくわからないのだが、だんだん六十歳の誕生日が待ちきれなくなってきた。そわそわとした視線が前よりも頻繁に棚の上の本に注がれるようになってきた。そしてある日とうとう我慢しきれなくなり、何年か前倒ししてこの小説の翻訳に着手することになった。最初は「まあ、今からでも暇を見つけて少しずつ準備していけばいいか」と思って始めたのだが、いったん取りかかったら最後もう手が止まらなくなり、結局思ったより短い期間で一気にしあげてしまうことになった。誕生日までは開けないでとっておきなさいと言われた子供が、待ちきれずにプレゼントの箱を開けてしまうのと似たようなものかもしれない。そういうせっかちな、前倒し的性向はいくつになっても変わらないようだ。


スコット・フィッツジェラルド著/村上春樹訳「グレート・ギャツビー」“訳者あとがき”より)


 もし「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』である。どれも僕の人生(読書家としての人生、作家としての人生)にとっては不可欠な小説だが、どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ。もし『グレート・ギャツビー』という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいかという気がするほどである(あるいは何も書いていなかったかもしれない。そのへんは純粋な仮説の領域の話だから、もちろん正確なところはわからないわけだが。)。


スコット・フィッツジェラルド著/村上春樹訳「グレート・ギャツビー」“訳者あとがき”より)


春樹さんにとってこれだけ大切な小説「グレート・ギャツビー」、
私は少しずつ少しずつ読み進めてきて、先日やっと読み終えました。


素晴らしかったです。。。本当に素晴らしかった。すごい小説です。
「この素晴らしい小説を、皆さんに紹介したい!」という気持ちが
とても強く自分の中にあるのですが、
でもあんまり素晴らしかったので、いったいどんな風に紹介したらいいのか、
ちょっと途方に暮れているような状態です。


信じられないぐらい素晴らしいライブを見た後に、
その気持ちを上手く言葉で表現できないという、あのときの気持ちに似てるかな。
「こんな気持ちを、言葉なんかにできるわけがないじゃないか」という。


でも、全く語らないよりは、語ったほうが少しでも伝わるかな、とも思うので
自分なりにこの本について紹介文を書いてみます。




グレート・ギャツビー」は、
ほんとうにもう、信じられないぐらい美しい文章の結集です。
今まで聴いた事のないような
美しいメロディーに出会ってびっくりしている時のような、
そんな時のような気持ちで、私はこの小説の一行一行を読みました。
静かに光り輝く絹のような、薫り立つような文章です。
とても鮮やかでもあります。
読んでいるとその場面の情景が、さあーーっと浮かび上がって来ます。


その中でも特に素晴らしいのは、春樹さんもおっしゃっているように、
やはり冒頭の文と、ラストの文章でしょう。
私はこの冒頭文とラストの文に、とても癒され、励まされました。
たぶん私はあの文章を、これから先一生大切にするだろうと思います。



この小説のヒロイン的な立場の、デイジーに関する描写もとても綺麗です。


 しばしのあいだ、その日の最後の陽光がデイジーのきらめく顔に、ロマンチックな彩りを添えていた。彼女の小さな声は、僕を前のめりにさせた。息を呑みつつ僕はその話に聞き入っていた。それから輝きは徐々に薄らいでいった。街路で楽しく遊んでいた子供たちが日暮れどきになってうちに引き上げていくかのように、ひとつひとつの光が名残を惜しみつつ、デイジーのもとを離れていった。


スコット・フィッツジェラルド著/村上春樹訳「グレート・ギャツビー」より)


 デイジーは流れてくる音楽にあわせて歌い始めた。ハスキーでリズミックなささやき声だった。ひとつひとつの言葉から、以前にまったくなかったような、そしてこれから先もまったくないであろうような意味を引き出していた。メロディーが高音になると彼女の声は、コントラルトの声の常として、それを追って甘く割れた。その変化のたびに、彼女の温かな生身の魔法がひとかけら、割れて空中に散った。


スコット・フィッツジェラルド著/村上春樹訳「グレート・ギャツビー」より)


美しい文章ですよね。
デイジーの美しさ、魅力が、何かの音楽のメロディーのように伝わってきます。



僕はできることならその部屋を抜け出して、淡く暮れなずんだ通りを東に、公園に向けて歩いていきたかったのだけれど、腰を上げようとするたびに、何か乱雑でぎすぎすした議論に巻き込まれて、まるで紐で引かれるみたいに椅子に逆戻りさせられることになった。それでも僕らのいる部屋の、明かりのともった一列の黄色い窓が、都市の頭上高くにぽっかりと浮かんでいる様は、暗さを増していく通りに立つ行きずりの人の目には、秘密めいた人の営みの一端として映っているに違いあるまい。僕はまたその行きずりの人でもあった。上を見上げ、そこにいったい何があるのだろうと思いを巡らしている。僕は内側にいながら、同時に外側にいた。尽きることのない人生の多様性に魅了されつつ、同時にそれに辟易もしていた。


スコット・フィッツジェラルド著/村上春樹訳「グレート・ギャツビー」より)


この文章も好きです。
読んでいて「ああ、わかるなあ」ととても共感しました。


「僕」はいま部屋の中にいて、通りに立つ行きずりの人から見上げられている。
でもそれと同時に見上げられている「僕」自身も、行きずりの人であり、
その場所からどこかを見上げている人である・・・。
内側にいながら、同時に外側にいる。
「尽きることのない人生の多様性に魅了されつつ、同時にそれに辟易もしていた。」
の文章にもめちゃくちゃ共感です。



こういう美しく深い文章が、「グレート・ギャツビー」の中には
じゃんじゃん出てきます。
極端な例えかもしれないけど、普段私が本を読んでいて
「100ページ読んで1を得る」としたら、
グレート・ギャツビー」の場合は、
「1ページ読んで100を得る」ような感じなんですよね。
それぐらい密度が濃くて、深いんです。
一行一行に深い意味があり、無駄な文章は全くありません。
しかも全ての文章が信じられないぐらいに美しい。



グレート・ギャツビー」の物語は、
ニック・キャラウェイという人物によって語られます。
基本的には彼が見聞きしたことを通して、この物語は進行していきます。
春樹さんはニックについて、次のように語っています。


ニック・キャラウェイは「いろんなものごとをとにかく公平な目で眺めよう」という姿勢で生きています。彼は世界を真剣に、公正に眺める人なのです。僕の小説の主人公の多くにも、彼のそのような視線はある程度引き継がれているかもしれません。


asahi.comインタビューより)


彼は主に観察する人です。彼はよほどのことがなければ判断はしない。彼は判断することをぎりぎりまで延ばす人なのです。
(中略)
僕が書きたかったのも、そういう小説なのです。判断するよりも、しっかりと世界を見つめ、観察する小説です。最終的な判断は読者がすればいいのです。小説家は深く綿密に観察するが故に、存在するのです。


神戸新聞インタビューより)


グレート・ギャツビー」を読んでいて私は、
春樹さんの初期の小説の主人公「僕」の姿が、ニックの中にあるなと感じました。
春樹さんの小説の「僕」の原型は、「グレート・ギャツビー」のニックなのだと。


春樹さんの言うように、
ニックはこの物語の中でほとんど能動的な行動を起こしません。
ひたすらに自分の周りの世界を、見つめて見つめて見つめています。
じっと観察しています。
だけどその世界の見つめ方、観察の仕方、
何か事が起こったときの彼の心の中の解釈の仕方に、
ニックの人柄がしっかりと出ています。
彼は世界を公平に、公正に、常に真剣に見つめようと努めています。


そういう物語の中でのニックの姿勢を見て・・・
私は「自分自身はどうだろう」と、自分を振り返ることになりました。
私も私なりに、
「世界を公平に見つめたい」と努力しているつもりなんだけれど、
果たしてちゃんとできているんだろうか、と。


生きているといろんな事が起こります。
自分から遠く離れた場所で何か事が起こる事もあれば、
自分自身がその出来事の渦中にいる事もあります。
あるいは、自分の大切な人が大変な出来事の渦中にいる事もあります。
そういうときに、私はいろんな物事を、
公平に公正に見つめる事ができているのだろうか、と思います。
自信はありません。


たぶんこれは、一生自分自身に対して問い続ける事なんだろうと思います。
何が正しくて、何が間違いかというのは非常に難しい問題です。
だけど、間違いか正しいかはわからないにしろ、
「ものごとを自分なりに公平に公正に見つめよう」という姿勢を
常に真剣に誠実に持とうと努めることは、とても大事な事だと思います。
なので、ニックの持つ「視点」、「世界の見つめ方」は、
私の目標であり、憧れでもあります。



小説「グレート・ギャツビー」では、
人や人生が抱える様々な種類の矛盾や理不尽さ、
そして日常生活のひとコマひとコマの中に潜む「深み」が、
フィッツジェラルドによる極上の美しい文章で描かれています。


この小説を読みながら私は、
「人や人生の中には、こんなにも様々な種類の矛盾や理不尽さがあるのだなあ」
と改めて実感しました。
私は自分自身のまわりにある矛盾や理不尽さ、人間関係のごたごたなどを、
この小説の文章のひとつひとつに重ねて読みました。
そうすることで自分や自分の周りの出来事について
「ああ、そういう事だったのか」という発見もあったし、納得する事もあったし、
自分の心の中の傷みたいなものが癒されるような感触もありました。


この物語を読みながら
「この人はどうしてこんな事を言うのだろう?こんな事をするのだろう?」
「私だったらどうするだろう?」とひとつひとつじっくり丁寧に考える事は、
私にとってとても意味のある事でした。
グレート・ギャツビー」はそういう事を人に真剣に考えさせる、
ある意味とても「リアルな」小説なのかもしれないと思います。



この物語は第七章で大きく展開します。
そこから先を読み進める事によって・・・読者の私たちは語り手ニックとともに、
心に深い傷を負い、大きな悲しみを背負う事になります。
そしてそれと同時に、熱いものが心に流れこんできます。
上手く言葉にはできませんが、それはとても大切なものです。
かけがえのない感情です。



ラストは本当にすばらしいです。
「うんうんうん、そうなんだよ」と心の中で深く頷きながら読みました。



私はこれから先おそらくこの小説を、何度も読み返すことになると思います。
そしてきっとそのたびに、違った印象を受ける事になるのだろうと思います。
違ったものを感じ取るのだろうと思います。



本当に素晴らしい小説です。
翻訳者としてこの小説を私たちに届けてくれた、
「橋渡し役」をしてくれた春樹さんに心から感謝です。


興味を持たれた方はぜひこの小説「グレート・ギャツビー」を
読んでみてください。


あの言葉にできない読後感をぜひ、
一人でも多くの方に味わっていただきたいと思います。